以下自分史、その2。
私が見習いとして元町「睦商会」(表通りにある「竹中」の製造工場)に入社したころ、驚いたのは職人さんたちの自由さ。
朝何時に来ようが夕方何時に帰ろうが一切他者と無関係。
朝礼も無ければもちろんラジオ体操なんて無い(職人の工場ではあまりないか?笑)。
勝手に来て勝手に帰るのです。
新しく入った小僧(ワタシ)なんかには挨拶もしてくれません。ほんと怖かったし、意味が分からなかった。
職人さんたちの仕事の仕方にもビックリ。
一人あたり三畳ほどの板の間の個人占有地内で、家具製作を最初から最後まで一人で仕上げます。
共同作業は無い。
「受け取り」という完全請負制度が生きている工場でした。
職人の製造単価が「箪笥一本いくら」と決まっている。三日で造ろうが、ひと月掛かろうが手間賃は一緒。親方のチェックを受けて完成、製造者のサインが入ります。
購入者からのクレームや修理依頼はその個人が責任をもって請け負う。
基本給無し、完全出来高払いの給与形態。
他人より早くて腕が良ければ高給取りが可能です。
ですから、朝何時に来ようが関係ないのです。
これは昔の木工所では当たり前の制度でした。
職人は木工所に属しているのではなくすべて一匹オオカミ、他の木工所に良い仕事があると聞くと、道具まとめてお引越しです。
完全ひとり親方で、腕の良い職人はたくさんあった木工所から引っ張りだこでした。
腕は良いけど遅い人、仕事は早いけれど雑なヒト、などなど、仕事の内容、木工所の性格、手間賃の良し悪しなどで移動が当たり前、どこにも縛られない代わりに何の保証もない世界。
「怪我と弁当は自分持ち」と自嘲気味に言ってました。
仕事が潤沢にあり、木工所も多く存在し、職人もたくさんいたころの話です。
これは横浜だけに限らず、芝(東京の)で良い仕事がある、元町で数物が出た、と言うことで職人も東西を移動しておりました。
木工所と家具店との関係も同じく、表通りに何軒かあった家具店では、上等な仕事は〇〇木工所に依頼、これは✖✖木工所と、ここでも腕の良しあしとそろばん勘定で、両者の関係はフレキシブルでした。
直営工場が生まれてくるのは、木工所が軒並み郊外への転居やら廃業で元町から消えていった時代。
「睦商会」が工場をたたむという話が出て、それでは依頼先の木工所がなくなり、生産出来なくなる緊急事態に「竹中」が「睦商会」を直営化したのでした。
そんな時代に私は元町に修行に入るのですが、そのころはすでに木工所は数軒、お店も数軒しかありませんでした。
睦商会で丸4年お世話になりましたが、私は入社時から「修業を終えたら独立する」つもりであることを会社に伝えておりましたので、4年目の初め、親方に「うけとり」にさせてくれ、と申し出ました。
それまでは見習いですから薄給とはいえ常雇で給料をもらっていました。掃除から配達の手伝いから雑用までの何でもこなす若い衆です。
家具造りも、教育係の職人さんの元、板削り、穴開け等々ひと通りやっておりましたが、最初から最後まで一人でまとめたことはまだありませんでした。
親方は「うけとりはまだ無理だ」と取り合ってくれません。
そこを無理にお願いし、ついに「うけとり」がスタートします。これが成り立つということは一人前の職人として認められるということですから。
しかし、いざやってみると、家具は図面通り出来上がって、仕上がりは悪くなくても、掛かった時間がまるで話にならないのでした。
一人前の職人さんが仕上げる時間の三倍もかかってしまっておりました。これには驚きました。これではやって行けません、完全歩合給なのですから!
今まで「睦商会」で三年間、その前に戸塚の「沙羅絵木」という家具工房で2年間、その前には彫刻の学校で4年間刃物を扱っていましたので、都合9年も木工の経験があったのに「うけとり」では通用しませんでした。
圧倒的に「遅い」のです。驚くべき現実に私の自尊心はズタズタでした。
職人の腕とは「仕上がりの上等さ」と共に「速さ」が要求されるのがプロなのでした。趣味じゃないのですから。
そこから、人生をかけて工夫を重ね、チャレンジが始まります。(ここは長くなるので略)
そして半年後には一人前の速さで仕上げることが出来るようになりました。
残り半年を諸先輩と同等の仕上がりと速さを実現し、晴れて一人前と認知されました。
※この「うけとり」制度、このあと無くなり、職人もサラリーマン化しましたので、私が元町最後の受け取り経験職人となりました。
そして4年の修業が終わり、一人前と認知され、予定通り私は退職を申し出るのですが、会社としては老齢化の進む職方の後継者育成として私を雇っているのですから当然懐柔の嵐でした。
実務トップである竹中の番頭さんからは「欧州に研修旅行に連れてゆくから」とか「給与面で~」など凄かった。
まあ、それほど有望な弟子と思ってくれたのでしょうね(自画自賛)笑。
しかし、私の意志は固く、入社時から表明しているように「私は独立する」を貫き、最後は番頭さんも社長さんも納得の上で円満退社いたしました。特に竹中社長はロマンチストだったので、色々と応援してくれました。
そして私は独立して工房を持つのですが、過去から今に至るまで、先輩・同輩・後輩を見回してみると、家具工房独立を夢見て修行に入っても、途中で挫折する人、自分が向いてないことに気付く人、怪我して転職してしまう人、家庭の事情その他で夢が叶わなかった人がほとんどでした。
夢見ても届かなかった友人たちのためにも、私の幸運と恵まれた環境に感謝しつつ、家具職人を全うしてゆくと覚悟したのでした。
この項、終り。・・自分史は続く!